「勉強」を「学び」と言い換えて教育を語るのが、どうも流行っているようだ。これはおそらく学習者としての子どもの主体性を認めようとする動きなのだろうが、これには「教育」というものの本質を見失う危うさを持っているように思える。
「勉強」は、”勉む”ことを”強いる”と書き、しばしばこれの暴力性を問題にする。しかしそもそも「教育」というものは大人や権力によって強いられるものであり、ここに子どもの主体性は認められない。
この視点は教育に関わる者は常に持っておくべきだと思う。学校に通わせる、ということが前提にある「学び」に子どもの主体性が発揮されることなどあり得ない。