思い起こせば小学生、特に高学年の頃のぼくは、常に誰かに対して怒っていた。誰かと言っても特にそれは母親、そして弟に向けられていた。
怒る理由は本当に笑えるくらい些細なことだ。「くちゃくちゃ」と音をたてて食事をしたり、つくってくれた料理に髪の毛が入っていたり。意外かもしれないがぼくには潔癖なところがあって、これは誰かが使っていた食器だ、と意識してしまうとその食器では食べることができない。そうした気に食わないこと一つ一つに声を荒げ、癇癪をおこした。
なぜそんなに怒っていたのか、と問われたら返す言葉がない。本当はそこまで感情をあらわに、怒る必要がなかったからである。
けれどもぼくは「怒る」ということを必要としていた。
それはなぜだろうか。
高校に進学するまで、常にぼく自身には「不安」が付きまとっていた。「こんな自分」はしっかりとこの世の中で生きていくことができるのだろうか。そもそもぼくには、周りと同じように人と関わり、同じようなことに興味をもって話をして、人なりに勉強をして成績をとる、なんて「ふつうのひと」と形容できる「ひと」が実在するのか、しないのかなんて話はとりあえずわきに置き、ぼくは「周りと同じように生きることができない」という悩みを持っていたのだ。
いまここで述べた「周りと同じように人と関わり、同じようなことに興味をもって話をして、人なりに勉強して成績をとる」ということは別に今できるようになったわけでもないし、その点において、より生きやすくなったなんてことはないのだが、「こうしてこのようにぼくは生きていくのだろう」というようななんとなくの将来へのイメージというか希望というか、そういった類のものがこの頃湧いてくるようになったというのは、そのころと比べだいぶ自分自身が楽になってきた、ということだろう。そうせしめたのはなにかということをここでこの先書いていくのだろうと思う。
中学校に入り、親元を離れ一人寮に入った。少人数制の学校で一学年一クラスしかない、極めて小さい学校だった。全校生徒合わせて200人足らず。大規模な公立校であれば一学年分の人数だろう。
その学校は「生活即教育」というスローガンを掲げ、生徒による「完全自治」のもとで、先に挙げたスローガンの通り、生活に通じた、ないし即した教育を行う学校と謳う、いまの殺伐とした教育の世界ではちょっとめずらしい(いじわるに言えば時代遅れ)の学校であった。その学校が謳う理念に、何か魅力的なものを感じた。うっすらではあるが、そこに行けば何か自分と関心の近い、また同じような話ができる「仲間」がいると思っていたのだ。
まあそういう言い方をするということは、つまり、「いなかった」ということである。小学校時代の学友たちとまああまり変わらなかったわけだ。学友に何を求めていたのか、と問われればしっかりと答えることはできないが、「自治」や学校のあり方について、そういう話をする仲間、そして何かその中で何か実践しようという気概ある学友を求めていたのだと思う。寝食を共にし、同じ教室で学び、それぞれが役割をもって生活に関わる「仕事」を行うわけだが、その中で「最低限」のことのみをやり、あとは皆個人の世界に入る。
ぼくはすぐにその現実を見て、大変なショックを受けた。その当時のぼくにとっては、人生に関わるこれまで最大の「選択」を間違えてしまった、と思うわけである。
俗にいう「問題児」(笑)なのでぼくの行いによるものなのか、「何度か辞めさせられるかもしれない」という出来事はあったものの結局辞めることなく6年間そこに居続けることになった。
中学3年間はあまりにいろいろなことがありすぎて覚えていないのだが、高校1年生の後半ごろになってようやく落ち着いてきたように思える。ずっと寮にいたこともあって、学校では責任ある立場(係のリーダーや役職者)になる機会を多く得た。イベントの企画者や広報行事の担当者になったりした。
自己肯定感を満たすために、機会さえあれば、よほどぼく自身の関心からそれていない限り、手を上げ続けた。そんなもの好きはなかなかいないので、基本的にやろうと思った企画や就こうと思った役職には就くことができた。そういうぼくの特性に付け込まれていたのか、役職を持っていないタイミングは一日たりともなかった。
いま思えば「病的」だし、くだらない仕事もたくさんやってきてしまったが、それによってぼく自身の心の安定と自尊心が保たれてきた、という功績は大いにあると思っている。人に頼まれ、また必要とされ、それ自体に楽しさ、喜びをもって取り組めたということは、誰にとっても心の安定につながるものであると思っている。この時期、学内での仕事もやりつつ、学外にも関心を向けるようになっていた。行政や関心のある分野に取り組むNPOなどと繋がり、その中で審議会の委員を務めたり、福祉や児童養護の現場で実際に活動をしたりしていた。校則違反ではあったがこっそり寮を抜け出し、ホテルやイベント会社などでアルバイトをしたりなんてこともしていた。先に述べた「こんな自分はしっかりとこの世の中で生きていくことができるのだろうか」という不安を解消するものであったのだ。
これはあくまでもぼく自身の自分勝手な理解、思い込みのようなものではあるが、学校の中でぼくは「逸脱した存在」として受け入れられてきたと思っている。「逸脱した存在」というのは、こうして書いていてもしっくり意味が伝わってこないような気がしているが、基本とされること、良きこととされること、に対する重圧、プレッシャーから、必ずしも皆がそうでなくても良い、ということを体現することによって、その余裕を学校内に生んだ一人だと評価する。
それが結局、どう転ぶのかということは今はまだわからないが、その場に居合わせた個人個人にとって、それぞれの生き方を肯定する一つのきっかけになることができていたら良いなあと思っている。ぼくのふるまいかたを見て、それが何を意味していたのか、ということをこの文章を読んで初めて意識する人もいるかと思う。想像力の豊かな人はこの文章を読んで、先に述べた「基本とされること」「良きこととされること」からの重圧、プレッシャーから逃れるそのきっかけとして私のこの語りが生かされることがあれば良いと思っている。